10代最後の年に家業の倒産を体験して、商売が順調だった時に親がもう少し準備をしていてくれれば、進路変更などせずに済んだなどと考えた事もありました。
この体験が、後にファイナンシャル・プランナーの資格、仕事を知って将来はファイナンシャル・プランナーになろうと思いました。
だからこそ、金融を学ぶために就いた保険の仕事は厳しいことも多々ありましたが続けられてと思います。
この仕事にめぐり合えて、また仕事を通して出会えた方に感謝です
これから先、どんな出会いや体験ができるのか、楽しみです。
北海道北見市に生まれる
祖父の代から、木材業を営み家計は裕福であったが、典型的な男尊女卑の家系。
父は先代が築いてきた家業を継ぎ、語り草の2代目。同業社から、2代目では商売はもたないと言われていた。

出産時、オギヤーの声があげられない赤ちゃんであった。
心臓に穴が開いて産まれてきたため(病名「左心室中核欠損症」)、母の網走市に住む父(私の母方の祖父)が、後の心臓外科の権威・東京女子医大の榊原先生が北海道旅行中にアクシデントに見舞われた際、数日間お世話をさせて頂いたご縁で、連絡先を教えて頂いていたため、先生のご厚意で、直ぐに東京女子医大で受診して頂き、札幌医大の和田教授を紹介して頂く。手術可能な体力がつくまで待って、6歳の時に和田チームに執刀して頂く。
今でも、心臓の執刀後の修復の良さから、時々風邪などをひいて受信する医者から、「どこで手術を受けたのですか?」と尋ねられることがある。
私の意識のないところで、このような劇的な展開があったようです。
「どこで、どなたの世話になるか、わからないものですね。人との出会いは大切にしたいものです。」

当時は札幌で予備校生、路頭に迷う
家業倒産の日の前日の夜11時30分頃、資金を借りていた業者が父の会社の木材を許可なく運び出そうとする。
その時、六法全書をまる読みしているほど知識が豊富な叔父が、この一件で「財産が残るぞ」と一言。その後、この件を事件として扱わない代わりに、返済金の相当額を減額され、家は残り、丸裸にならないですむ。
その経緯の詳細は父から語られることはなかったが、法の力と認識している。
「知は身を助ける」

東京都町田市、埼玉県与野市(現在さいたま市)、沖縄県那覇市、埼玉県さいたま市と、夫の転勤等で移り住む。
29歳で男児、31歳で女児を出産。親や知人、友人がいない所での子育ては結構大変でしたが、親子共々、逞しく生きてこられました

 
37 歳/
10年間の専業主婦生活にピリオドを打ち、満を持して社会へ飛び出す決心をする。・・・が、子どものいる主婦の働き口は今も昔も非常に厳しい。
正直、自分の置かれている状況では、保険会社の営業職の選択しかありません。
埼玉で国内生命保険の営業職となる。

この時の自分との決め事
① 親族、友人に勧めるのは、1年以上仕事が続けられてから
② 他人の2倍以上働く
③ 新人研修の際に支社長に言われたように給料の半分は貯える

この決め事を守り仕事に打ち込んで軌道に乗ってきた矢先、夫の務め先が会社丸ごと山梨への移動を決定。お客様との信頼関係もあるので、2年間、夫を先発部隊として山梨に送り込み、埼玉で業務遂行する。

埼玉支社に4年程勤務して、転籍扱いで甲府支社へ。

初めて住む町で、人も地理も分からず、最初の1年程は、超きつい日々。ただ、山梨で良い出会いをさせて頂いたお陰で、徐々にお客様ができる。

甲府支社在職中にファイナンシャル・プランナーの資格取得

45 歳/
埼玉、甲府で通算8年勤務させて頂き退社。 独立系のFPとしてスタートする。

49 歳/
山梨県甲府市丸の内にFPの合同事務所開設

51 歳/
駐車場の利便性を考慮して事務所を移転 山梨県甲府市国母8丁目14-44オリオンビル2F

57 歳/
約18年間山梨県でお世話になり 生活と仕事の拠点をさいたま市へ移す。 埼玉県 東京都 神奈川県 山梨県にて 活動させて頂いている。